ブノワ・デルベック&イニアテュス(Jerome Rousseaux)のインタヴュー、第二回です。この「Le Metier de Musicien」、長いので半分に分けて、第三回に後半を載せます。
しかし、そんな大事な先生だったら名前忘れるなよ>イニアテュス、とツッコミたくなってしまうのだが(^^;)おもしろいなあ。って面白がってるの私だけか?
IACPとCIMのフルネームをご存知の方、教えてください。
LE METIER DE MUSICIEN
ミュージシャンという仕事
- プロのミュージシャンになりたいと思ったのはいつ?
Benoit: 僕はずいぶん遅くて、20歳のとき。やっとプロになりたいと気づいたんだ。とはいっても音楽とは違うことをやっていたんだけどね。バカロレアを受けたあと、音響エンジニアになる勉強をしていたんだ。
姉の知り合いにダヴィッド・ラクロワ David Lacroix っていう、無名だけど凄く面白い作曲家がいた。彼はテリー・ライリーからケージを通ってリゲティまでを教えてくれた。何年もの間、僕にとっての「メントル」(註:ギリシャ神話で、オデュッセウスが子供の教育を託す友人)の役割を果たしてくれたんだ。お互いずっと近くにいて、いまやリール大学の同じ教職ポストを分け合っているんだよ。彼との出会いは衝撃だった。自分の好みがすごくはっきりしてるヤツ。彼の話はとても面白くて、二人で音楽についていろんなことを話し合ったよ。それから、一緒にIRCAMアンサンブルのコンサートに行き、終わったあとはさっきコンサートで聴いてきた音楽について夜じゅう議論した。
彼のおかげで、僕はいくつかのとても重要な選択をした。ジャズの勉強をしたいと思うようになった頃のこと。当時はIACPとCIMという二つのジャズスクールがあった。二つはまるで正反対、というより戦争状態だったね。CIMはビバップで、退屈で...IACPはぐっちゃぐちゃな所だったけど、音楽、とりわけインプロヴァイズド・ミュージックに溢れていた。ある日、どっちがいいか相談したら、彼に言われた。「アラン・シルヴァに会いに行きなよ、そっちのほうがきっと面白いから」って。というわけで彼は僕の恩人なんだ。
Jerome: 僕は、そのCIMに行ったんだけどね。(笑)1年間学んだ。僕はジャズをやったんだ。その影響は間接的だけどね、特にバルトークを知ったのはジャズをやったおかげだ。今はあまり聴いてないけど、ジャズは大好きだった。ピアニストとしては、モンクを知ったことはまさに天啓だったよ。
Benoit: 僕もそうだった。
- モンクとの出会いは早い時期に?
Jerome: いや、16歳まではデューク・エリントンが大好きだったね。17、18歳頃、コルトレーンとモンクを知った。それは本当に大きな衝撃だった。
16歳でジャズを知った僕は、例のピアノの先生に(僕はずっと彼女に教わっていたんだ)ジャズを習いたいって頼んだ。こう言ってね。「僕、もうクラシックに飽きちゃいました。ジャズをやってみたいんです」そしたら、若くて正しくて好感度満点の彼女は言った。「いいですよ。私はジャズのことはよく知りませんけど、とにかくやってみましょうね」問題は、彼女がブルースのパート譜とかを出してくれたってこと...確かにジャズはやってたけど、それはクラシックみたいに譜面に書かれたジャズだった。それで僕はひどくがっかりした。想像してたのと全然違ってたからね。
結局、バカロレア受験のためにやめてしまった。1〜2年ピアノをやめて勉強したんだ。あの頃はミュージシャンになりたいなんて思ってなかった。なぜって、ピアニストとして(当時はまだ歌ってなかった)、僕は音楽を自分の好きなことができる場所にしておきたかったから。プロのミュージシャンになってクロード・フランソワのツアーについて回るなんて御免だった。僕にとって、ミュージシャンになるとはそういうことを意味していたし、そんなの興味なかったからね。
Benoit: 僕もそう思っていたよ。だから音楽以外の勉強をしたんだ。
Jerome: そういう思いを、僕はいつも自分の行動基準としてきた。音楽は一生懸命やっていきたいけど、それは、音楽が「僕の」音楽、自分の気にいる何かであってほしいと思っているから。音楽教師になって給料を貰うとか、落ち目のスターの伴奏をして食いぶちを稼ぐために音楽をやる、そのための練習なら、ピアノなんか大嫌いになるだろうね。だから、プロとして音楽をやっていこうと本気で考えるようになったのは、ずっとずっと後のこと、30歳になる頃だったんだ。
20歳ぐらいで、またピアノを始めた。すっかり忘れちゃってたからね。1年間クラシックをやって基礎をやり直した。今までで一番夢中になった大作曲家は、ラヴェル。ラヴェルとかドビュッシーとか、今世紀初頭のクラシック音楽は全部好きだ。いつか、ラヴェルかドビュッシーの曲を弾けるようになりたいと思った。それでクラシックを1年やったんだ。大好きなショパンを弾いたりしているうち、ある日、ついにラヴェルの曲を一つ弾けるようになった。めちゃくちゃ嬉しかったよ。それはラヴェルの一番易しい曲だったんだけどさ。
その後、クラシックは辞めてジャズを始めた。そのときの先生がバルトークを教えてくれたんだ。これもまた天啓だったね。「ミクロコスモス」を練習した。短い曲がいろいろあってね、今でも弾いてるよ。
Benoit: 僕もだ。僕の生徒にも必ず弾かせてる。
Jerome: 実は僕のアルバムにも、バルトークからいただいたネタがあるんだ。ここにいる皆の前で白状するんだけどさ。(笑)「ミクロコスモス」に、凄い曲がある。片手のキーはシャープが5つあって、もう片方は変位記号ひとつだけっていう。つまり、片手は黒鍵だけを弾き、もう一方の手は白鍵だけを弾いて、後半それが入れ替わる。で、僕の「Faits Divers (三面記事)」っていう曲でも同じ事をやってる。左手は黒鍵だけを、右手は白鍵だけを弾いて、後半入れ替わるんだ。
Benoit: それは全然バルトークの盗作じゃないって。リサイクルしてるってことだよ。
Jerome: こういう仕掛けのある譜面を見て、僕は思ったね。「畜生、これは凄いぜ、いつかこういう曲を書いてやる」って。(と、歌い出す)ヴォーカルで興味があるのは、展開を予想できない、不協和音すれすれの−ちょっと耳障りだけどひどい不協和音ではない−ハーモニーだ。そういう意味でバルトークは魅力的で、素晴らしい。そのジャズの先生の下で僕は2年勉強したけど、ほんとにいい先生だった。彼は僕をバルトークへと導き、インプロヴィゼーションを教えてくれた。
Benoit: その先生、なんて名前?
Jerome: それが思い出せないんだよなー。インプロヴィゼーションを教えてくれて、音楽とは何かを理解させてくれたのに。僕は「モダン・ハード・バップ」スタイルをもっていたらしいよ。
Benoit:ペンタトニック!(笑)
Jerome: そうそう、僕は実にペンタだった。(笑)実にぎくしゃくしてた。先生にそう言われたときは、笑い転げたね。クラシック音楽を教える方法では、音楽そのものを理解させるのではなく、音楽の演奏技法を学ばせるんだ。でも、この先生に教わって、僕は音楽やハーモニーやその他のことを理解できた。そして僕はたくさん作曲するようになった。つまり、僕に曲作りを教えてくれたのはこの先生なんだ。いや、具体的な作曲法は何も教わらなかったけど、音楽がどんなふうに機能しているかを説明してくれたんだ。で、僕は「なんだ、すっげー簡単じゃん」と思ったわけ。
16歳のときには、小さなシャンソネット(小唄)をいくつか作っていた。詩も書いていたからね。なんと恐ろしいことに、まるごと詩で埋まったノートを何冊ももってるよ。初めは言葉だけ書いていたけど、だんだん音楽をつけるようになった。でもそれはむちゃくちゃ単純なものだった。だから、このジャズの先生のおかげで自分が今までどんなものを作っていたかよくわかったし、もうちょっと頭を使ったこともできるようになった。
その後、僕はCIMに1年通って、ローラン・キュニーに学んだ。彼はとてもギル・エヴァンスでバップな人。すごく面白かったよ。でも、飽きてしまって辞めた。確かにあれは「学校」だったね。CIMの人達が強い影響を受けていた演奏スタイルとか技法は、過去のものだった。それに僕は歌のほうに力を入れたかったし。今でも、ピアノの前に座るとちょっとジャズを弾くけど、昔ほどじゃない。でも、ジャズから学んだことは多いよ。
Benoit: 僕の場合、最初にジャズを教えてくれたのはジャン=ピエール・フーケ Jean-Pierre Fouquey ていう人で、マグマに参加したこともあるピアニストだ。彼はいろんなことをやってた。特に映画や演劇の音楽。彼はメシアンとか−当時僕はメシアンのことはもう知っていたんだけど−、多調性とか、黒鍵と白鍵とか、ドビュッシーあたりの今世紀初頭の音楽について、いろいろ話してくれた。その後がIACP。まさに、自分の身を投げ込んだって感じだったね。同じ街に住んでいる仲間のヴァイオリニスト(パスカル・モロウ)がやっぱりIACPにいたもんで、いきなり「僕はここにいていいんだな」って思ったわけ。僕を入れてくれたのはディディエ・プティ。当時彼はIACPで教えていたんだ。だからディディエとは何年もの長いつきあい。アラン・シルヴァのアトリエ以外にはピアノの居場所がなかったんだけど、ディディエ・プティとかドゥニ・コランあたりの連中とは一緒にやった。結局、ドゥニは長いことIACPにはいなかったんだけどね。
僕は16歳半でIACPに入って、セシル・テイラーもサン・ラも全部聴いてますっていう、すっかり理解ってる連中と一緒に演るようになった。僕ときたら「さん・らってだれ?」「せしる・ていらーってだれ?」って調子だったよ。
そしたら、義兄がセシル・テイラーの素晴らしいレコードをプレゼントしてくれた。「Garden」っていう、Hat Hut レーベルから出たヤツで、1980年ローザンヌのソロ・コンサートを収録した凄いレコード。大ショックだったね。そういうのと並行して、地元では仲間とスタンダードを弾いたり、ポップスやシャンソンを作ったりというのも続けてたんだけど。
あれは本当に気違いじみた時代だった。僕はリセに通いながら、毎週金曜の夜にはIACPのレッスンに出ていた。アラン・シルヴァのピアノのレッスンがあった。彼はピアニストじゃないのに!でも、アランはセシル・テイラーと一緒にやった仕事について何もかも、曲の構造とかその他もろもろについて話してくれた。わくわくしたよ。そのせいで、独自の構造を探究することに魅かれるようになったんだろうな。
アトリエが終わると、サム・リヴァースやマル・ウォルドロンやスティーヴ・レイシーなんかのコンサートがある。そのあと、仲間が借りていたリヴォリ通りの5平方メートルの部屋で寝かせてもらう。で、翌朝、メトロの始発に乗って数学の試験を受けにいったんだよ。
リセの最終学年の一年間はずっとこんな調子だった。狂ってたね。でも、ミュージシャン達がみんな苦労してるのもよく見えた。だから、こういう音楽やってたら生活できないってこともすぐわかって、ちょっとメゲたりもしたんだ。
(以下、次回に続く)