17/07/98で冒頭部分をご紹介した「つかの間のリーダー達による想像的民俗音楽」。ARFIのスタッフの方から全文掲載をご快諾いただきました。時間がかかりそうですが(^^;)がんばって最後まで訳してみたいと思います。では、連載第2回をどうぞ。
CONCERTS, STAGES, ATELIERS...
L'ARFI DE TOUS BOIS EN TOUS LIEUX
コンサート、セミナー、アトリエ...あらゆる場、あらゆる方法のARFI
Jean Mereu (以下J.M.):
ARFIでは、音楽について話し合いをしたことが一度もないような気がすることがある。僕らにとって重要なのは音楽そのものと音楽を実践する方法であって、音楽についての議論ではない。僕らが話し合ってきたのは、すぐれて具体的で実践的な問題なんだ。
A.J.:
皆が同じ美学を共有していることを疑ったことはない。ときどき、お互いに自作のレコードを聴いてもらうんだけど、言い争いになったことはほとんどないね。
M.M..:
でも音楽教育を始めた頃には、どんな形で何を伝えたいのか、といったようなことについて本格的な議論をしたんだ。ジベールとロレのあいだで、とても理論的な手紙のやりとりもあった。
A.G.:
その通りだけど、それはARFI全体とは関係のなかったこと。あくまでクリスチャン(ロレ)と僕がやりたかったことであり、議論だった。他の皆は、僕らの文書がインテリくさいと感じたこともあったみたいだし、あんまり関心を持ってなかったね。
M.M.:
音楽に対して今までと異なるアプローチをとることを求められていた時期でもあった。当時、文化省の地方局はコンサートには一銭も助成金を出してくれなかったが、「教育」には予算がついていたから。
A.G.:
僕らにはひとつ心配事があった。誰であれそうしたいと願う人が、コードを全部知らなくても音楽を始められるようにするにはどうしたらよいか、ということ。Hot-clubなんかで演奏されるジャズは、出演者がロリンズやコルトレーンみたいに上手く弾けるかどうかを見に来るような、いわゆる「通」の聴衆に受けていた。そんな状況を打ち砕いたのがフリージャズだ。僕らは演奏できる場所ならどこででも、あらゆる人々のために演奏できるようになったんだ。
M.M..:
病院や学校や刑務所や工場で、デモ支援のためにコンサートを行いながら、普通のコンサート会場でも同じように演奏した。それから、ジャズの発展をたどる、音源と映像を組み合わせた作品を発表したりしていた。
A.G.:
クリスチャンと僕は、ミュージシャンでない人達のために、音楽を聴くことと体を使ったパーカッションを主としたセミナーを開催した。参加したいという素人の人達はたくさんいたね。キャンプ場かどこかで僕らの演奏を聴いたんだけど、ジャズクラブに足を踏み入れた経験がないからジャズの初歩を教えてほしい、と言われることもあった。あと、看護士とか演劇をやってる人達とか、学校の先生達のためにもセミナーをやったっけ。
J.M.:
ただ僕は、今話していることとか、さっき話題になったばかりの「美学」に関してもだけど、ちょっと皆と意見が違うんだ。
1975年、僕はまさに見解の相違のためワークショップ(訳注:Free Jazz Workshop、後のWorkshop de Lyon)を脱退した。僕はインターコミュナル・フリー・ダンス・ミュージック・オーケストラ l'Intercommunal Free Dance Music Orchestra でフランソワ・テュスクと一緒に活動を始めていて、ジャズと大衆音楽の混合を試みていた。というのも、フリーはごく僅かの人にしか受け入れられないと思ったからなんだ。この考え方はワークショップの中で共有されるものではなかった。そして僕はフリーの演奏をやめた。
M.M..:
「インテリの平等音楽、フリー」についての激しい論争だったね。
J.M.:
大衆音楽に対する僕の関わり方は凄く政治的なものだった。アランの場合は、彼のルーツとか子供時代とか...より具体的な関わりだったけど。実際には、「想像的民俗音楽」という考え方は全員一致してたんだろうとは思うけど、皆が同じように感じてはいなかったんだ。
(以下、次回に続く)