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夜更かししたわりには朝早く目が覚めた。部屋はせまいが、一人旅には充分だ。
レセプションに降りると、きのうのマダムがいた。
「ここで朝食はとれますか」「ええ、ご希望なら。お好きなテーブルへどうぞ」
ここは「朝食込み」料金ではないので、てきとうにカフェにでかけても良かったのだが、マダムが感じの良い方なのと他にお客がいなくてのんびりできそうなので、そのまま朝食をいただくことにした。カフェ、バゲット、クロワッサン、オレンジジュース、ヨーグルト、フルーツコンポート(これもヨーグルトみたいな容器に入っている)、アプリコットジャム。フランスに来たなあ、と思う朝食メニュー。パンが美味しい。
「きょうは土曜で、しかもメーデーなので外はとても静かですよ」とマダム。
「なにかメーデーのイベントはあるんですか」
「いえ、ないと思います。きょうは商店もほとんどお休みですし」
レセプションに置いてある観光パンフレットを一通りもらって、マダムに近所のおすすめの場所を聞いてみた。
「きょうは何しろお店はほとんどお休みですけど、旧市街まではここから徒歩20分くらいで行けます。教会建築にご興味がおありなら、旧市街のそばにカテドラルがありますし、行く途中にある教会もとてもきれいですよ」
コートを羽織って外に出る。朝晩の気温は10度くらいなので、東京の3月頃の気候か。良い天気。ひんやり乾いた空気が気持ち良い。確かに、人通りも車もとても少ない。メーデーの5月1日は、フランスでは好きな人にすずらんの花を買って贈る「すずらんの日」でもある。静かな通りで、子供や若い女性がすずらんの花を売っている。
ぼんやり歩いていると、県庁舎のある広場に出た。レジスタンスの闘士を讃えるモニュメントがある。大統領が訪れると、ここに献花をするのが決まりだという。県庁舎と隣り合って、マダムが話していた教会があった。そっと扉を開けて中に入ってみる。古びた木の長いすが並ぶほとんど無人の教会。祭壇もステンドグラスも聖人を描いた画も美しい。
かすかに、グレゴリオ聖歌が聞こえてくる。スピーカーで流しているのだと思うが、祈る人の邪魔をしないように音量を絞り、厳粛な雰囲気を深めている。
(写真1)
教会を出て、そのままカテドラルまで行くつもりだったが、ぼんやり歩いているうちに道を逸れてしまったらしい。いつのまにかレピュブリック広場に出た。大手銀行やレストラン。ふだんはにぎやかなのだろうが、メーデーの朝は静かだ。街自体があまり大きくなくて、多少迷ってもどうということもないと分かってきたので、てきとうに小道に入ったり、いつのまにかサルト川沿いの道に出てみたり。
しかーし。そうやって歩いていると、何度も何度もEuropa Jazzのポスターに出くわすのだ。今年のポスターって、そう、ルイなのよ。フェスティヴァルのプログラムとして4月29日に行われた「キューバン・ナイト」コンサート(オルケスタ・アラゴンとオマール・ソーサが出演)だけのポスターも良く見かけたが、でもやっぱり「ル・マンはルイだらけ」。歩いているうちに、だんだん恥ずかしくなってくる。って、なんで私が恥ずかしくなるんかい。
(写真2)
また目の前に教会が現れた。
さっき入った教会よりもっとこじんまりしているが、気になって中を覗いてみると、たくさんの人がいる。ミサではなさそうだし、何事だろう?しばらく躊躇してから思い切って入ってみた。
アマチュア合唱団だ。聖堂のなかで、中央の指揮者の指導を受けながら合唱の練習をしている。お年寄りから子供を連れた夫婦、学生風の若者まで、普段着の老若男女が数十人。さまざまな宗教曲の部分部分を次々に練習する。
聖堂の前方の壁に美しい宗教画が描かれているが、練習の邪魔をしそうで見に行けず、しばらく歌を聴くことにした。
聴く、といっても、同じ節を何度も繰り返すので、決して1曲をじっくり聴くことはできない。出だしがそろわず皆が笑い出すこともあって、和やかな雰囲気のなか練習は続く。
けれども、皆が指揮に合わせて歌い出すと、その声は聖堂を天井までいっぱいに満たしながら、信じられないほど美しく響きわたるのだ。
ああ、この教会は確かに、この街に住む人達の暮らしとともにある。
気持ちが動揺してくる。こんな感じはひさしぶりだ。ひさしぶり?その前はいつ体験しただろう?
・・・思い出した。あれは10年以上前、団体旅行で訪れた真冬のワルシャワ。ミサが行われていた聖十字架教会。祈る人々。壁に掲げられている、モノクロ写真を引き伸ばした大きなパネル。収容所で撮影された、コルベ神父の姿。
聖堂の前の方に集まって練習を続ける合唱団の人達は、最後列に座ったまま動かないアジア人観光客になど気づいてもいないようだ。それはまったく、幸いだった。
この教会(Eglise St. Benoit。写真は撮れなかった)を出て、こんどは正しくカテドラルへ。いや、もう、このカテドラルはきれいです。ル・マンって、日本の観光ガイドブックには24時間耐久レースのこと以外紹介されていないが(実際、ゴールデンウィーク真っ最中だというのに、滞在中ひとりの日本人観光客にも合わなかった!)、もったいないです。こんなきれいなものがあるんだから観に行きましょう、と、私なんかの写真で申し訳ないですが一応出してみたり。
(写真3)
昼をすぎ、歩いて駅前まで戻った私は、けっきょく北アフリカ系移民の男の子達がやっているいーかげんな「ケバブ系サンドウィッチ」の店で済ませてしまい(店の名前が「Mac' Dönar Kebab」っていうのよお)、部屋で「ひと仕事」をしてのんびり過ごした。今夜もコンサート。Jさんがホテルまで迎えに来てくださることになっている。