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ルシアたちがライヴを終え、誰もいなくなったステージに、ルイが楽器と譜面のようなものを抱えて上がり、最初から置いてあった2脚の椅子の片方にケースごと楽器を置き、もう片方に腰かけた。他に上がってくるミュージシャンはいない。ルイはソロ演奏をするようだ。
椅子に腰かけたまま、二つに折ったピンク色の厚紙を開いた。
ピンク色の厚紙の表に、マジックで「WDL」と書いてあるのが見えた。WDLーWorkshop de Lyon。「Free jazz workshop」という名前だった頃から含めると、1974年からルイが参加し、1987年まで在籍したARFIのグループ。彼はARFIを脱退するまでずっと、クリスチャン・ロレ、ジャン・ボルカト、そしてモーリス・メルルと共に、この4tetで演奏を続けていた。
ルイは、ピンク色の厚紙に挟んだ紙の束を、一枚ずつ丹念にみている。
「これはアメリカン・センターで演奏したときの写真...これは現代美術館で撮った写真...」
と、独り言のように語りながら、ルイは手に取った古い写真を無造作に、しかし静かに、床に投げる。
「これは○○で演奏したときのプログラム。曲目は、Chant bien fatal、それから...」
と、手にしたものにコメントしては、その紙を自分の周囲の床に少しずつ置いていく。そして独白は、自分がFree Jazz Workshopに参加した頃の思い出に移った。
聞かなければ。耳を澄まして聞かなければ。録音なんてしてないし、今この瞬間を聞き返すことは二度とできないのに。でも、私はこのあたりのルイの話をうまく聞き取ることができなかった。もともと貧困な語学力の上に、気持ちは更に動揺していた。
「WDL」と書かれたピンク色の紙。そこに挟まれた紙の束。ルイはそうやって、ワークショップ・ド・リヨンの記録、ARFI時代の体験の記録を、コンサートで演奏する曲目をメモしただけの紙切れまで保存していたのだ。そのことにひどく動揺させられながら、私はやっと3枚の写真を撮った。(photo15-17)
「サーキュラー・ブリージング(フランス語ではrespiration circulaire レスピラシオン・シルキュレール)、僕はこの奏法をモーリスから教わった。サーキュラー・ブリージングのことを、別の呼び方でsouffle continue(スッフル・コンティニュー)とも言う。そう、これはsouffle continueの歴史。僕らはsouffle continueについて話しているんだ」
ルイはそう語りながら立ち上がり、バスクラリネットを手に持った。
Souffle continueー「持続する呼吸」。呼吸を続ける、それは生きているというあかし。それは、実は後から気付いたのだけど、今夜のコンサートのサブタイトルでもあったらしい。
ルイがバスクラを構える。バスクラから鳴り始めた音、それはライヴを何度か体験している者には馴染みの、「mémoires des mains」と同じ出だしの、サーキュラー・ブリージングによる演奏だった。
馴染みの?違う。それは普段のライヴの熱気に包まれた音ではなかった。大切に保存していたワークショップ・ド・リヨンの記録を見返しながら、モーリス・メルルとの思い出を淡々と語ったルイの、モーリスへの静かな敬意と愛情を込めた演奏だった。
はじめは小さなステージの中心で演奏していたルイが、サーキュラー・ブリージングを続けながらゆっくりと歩き、ステージの左端で正面を向いて演奏を続ける。私の目の前、1メートルのところで。
でも私には、もうカメラを構えることはできなかった。
* * *
時刻は深夜0時をとっくにまわり、ルイの演奏を見終わって、JPと私は帰宅するつもりで、ルイに挨拶しようとした。
「いや、僕はこのあとクリスチャン・ロレとジャン・ボルカトと一緒に演るんだよ」
「えっ?!マルミト・アンフェルナル?!」
「違うと思うけど、たぶん下の大ホールじゃないかなあ」
JPも私もまっつぁお。でも、明日も朝から仕事のJPは、さすがに帰って睡眠をとらなければならない。私は心配するJPに頼み込み、一度一緒にJPの家まで戻り、JPから鍵を受け取ってひとりで劇場に戻って続きを見ることにした。徒歩5分だからできたことだけど、JPには本当に心配をかけたと思う。ごめんねJP。
大急ぎで劇場に戻ると、ホールではARFIのビッグ・バンド、マルミト・アンフェルナルの演奏がもうすぐ終わろうとしていた。いつもなら悔しくて暴れるところだが(^^;)さっき感情の最高潮を体験してしまったせいか、私は慌てず、ステージの端からその様子をながめることができた。
続いてルシアがスペイン戦争のパルチザン・ソングを歌うセットがあり、その後はイヴ・ロベール、フィリップ・デシェペー、アルフレッド・スピルリのトリオ。こーれーが!カッコよくてユーモアに富んでいて、こんどは15分だけじゃなくて1時間ステージやってー!という素晴らしい即興演奏だった。(photo18-19)
クリスチャン・ロレ、ジャン・ボルカト、ルイがステージに現れた。モーリス・メルル以外の、ワークショップ・ド・リヨンとしての活動開始当時のメンバーが揃ったトリオ。3人はとても力強いフリージャズを演奏した。10分程度の演奏を1曲だけ。(photo20-21)
幕開けに見た現在のワークショップ・ド・リヨン以上にワークショップ・ド・リヨンとも言えるこのメンバーでの演奏を聴けたのはとても嬉しかった。でも同時に、これはモーリスの追悼コンサートだからこそ起こったことで、これを機会に3人が再び一緒に演奏を始めるということにはならないだろう、とも感じていた。
Jazz Magazine2004年4月号の別冊で、シルヴァン・カサップの「で、ARFIはどーよ」(←誤訳です^^;)という質問に、ルイは率直に答えている。ARFIはメンバー全員が平等(実際、ARFIはミュージシャン以外のスタッフも含めて上下関係ゼロの組織として、今日まで存続している!)。リーダーというものが存在しない。僕は、自分がリーダーとなるグループを作りたくなった。「民主主義」的でない音楽活動をしたいという欲求が高まって、ARFIを脱退したのだ、と。
ルイはARFIに感謝し、ARFIを愛し続けているだろう。リーダー作を作るようになってもずっとARFIのメンバーのアラン・ジベールに曲作りを依頼してきたように、ARFIとの友情は保ち続けていくだろう。でも彼が15年以上前にARFIを脱退したのもまた、迷いのない、潔い決意によるものだったろうと思う。ルイは彼自身の道を歩み、クリスチャン・ロレ、ジャン・ボルカト、そして亡くなるまでのモーリス・メルルもまた、ARFIとして自分自身の道を歩んできたのだ。
「70年代のスクラヴィスは最高だった」「80年代の、ハチャメチャだったスクラヴィスが懐かしい」という声をたまに聞く。ヨーロッパで実際に当時のライヴを体験した上でそういう感想を抱く人がいるのは当然だとも思う。でも、日本で同じような発言を目にするとき、違和感を覚えずにはいられない。
確かに最初のFree Jazz Workshopの頃からARFI時代のルイは素晴らしい。NATOやIDAからアルバムを出していた頃も。でも私が一番ワクワクするのは、いつでも「今」のルイだ。こうやってたまにステージを観る機会がめぐってくるたびに、その思いは強くなる。
ルイは3回来日公演をしたが、3回目のツアーからも、すでに5年が過ぎた。こうやって私がステージで体験していること、それが「レコード」だけでは必ずしも伝わっていないという実感をどう語ればいいのか。いつもいつも、もどかしい。
俳優の男性による、モーリスの思い出と彼の死をめぐるちょっと哲学的?なトークのあと、最後に再び、30人ほどのミュージシャンが揃った。皆が揃って、はじめは小さな低い音から少しずつ音量と音数を増していき、音がいっぱいに満ちたところで、右端にいたルシアが1歩前に出て、
「Au revoir, Maurice(さよならモーリス)!」
と声を上げ、演奏は全て終了した。(photo22-23)
時刻は午前2時近く、平日なのでさすがに途中で帰った人も多かったが、それでも1階席は半分近く埋まっていて、大きな拍手が起こった。
楽屋で会ったルイは、「またフランスに戻っておいで」と言ってくれた。
戻りたいよー。つか、帰りたくないよー(^^;)でも今回の滞在でも、私はルイと何度も会ったのに、やっぱり肝心なことをいっぱい聞きそびれてしまった。ARFIの人達にも話を聞きたいけど、今の自分にはできないことだとも感じた。次回こそは(いつになるかわからないが)、もっとちゃんと準備して、いろんなことを率直に聞いてみよう。
できるだけ音を立てないようにJPのアパルトマンのドアを開け、抜き足差し足で中に入ると、リビングにはすっかり簡易ベッドの支度ができていた。ありがとうJP。あなたは私のリヨンの恩人です。