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メトロは地上駅に到着。ホームに降りたところで、Lがシリアスな様子になる。
「この界隈はとってもビザールなところなの。そのことは心にとめておいてね」
この界隈とは、Stalingradのことだ。パリでメトロに乗るたびに、今の時代にスターリングラードっていう名前がスゴイなあとは思っていたが、降りるのは初めてだった。
遠くで、アフリカ系?のおやじがわめいているのが聞こえる。酔っぱらいか、それともジャンキーかもしれない。階段を下りると、政治団体のビラや、パンクのコンサートのビラ(ほとんど懐かしいようなデザイン)がベタベタに張られた塀が目に飛び込んできた。隣のビルが壊された建物の、剥き出しの壁がいっそう荒んだ感じだ。ここは、今のパリ市内では最も低所得層の人々が集まっている街なのだという。ドラッグ、暴力の問題も多い。昼間はだいじょうぶだが、
「夜の一人歩きは絶対にだめよ」
と、Lは真剣な面持ちで言う。
心なしか足早になって、Lと私は駅から続く道を歩く。広くて見通しが良いこの通りを目的地にまっすぐ向かっていくのはいいけど、あてもなく裏通りに迷いこんだりしたら、「猛獣」に出会ってしまうんだろうな。
着いたところは広大な空き地だった。そのなかに、5つ、6つ、サーカステントがある。キャンピングカーのような車がいくつも停まっているが、サーカス団のものだったり、車内をアトリエにしているアーティストもいるようだ。
「ここはパリ市の所有する土地で、いくつかのサーカス団が期間限定で貸してもらっているの。将来は公園を作るんですって。ここに公園ができるのはいいことだと思う。今はあんまり寂しいでしょ」
この界隈も再開発が予定されているらしい。しかし再開発が進めば家賃が上がり、低所得層の人達はやがてここに居られなくなるだろう。
「そしたら郊外の問題がますます深刻になるよね」
「ええ、きっと」
私たちはサーカステントを模したようなかわいらしい木製の建物に入った。そこはレストランで、美味しいスイス料理が食べられるそうだ。そこで私たちはLの友人達(サーカス団)に会い、飲み物をもらって少し話をしたあと、再びメトロに乗り、ラ・シャペルに降りた。スターリングラードの隣駅なのに、雰囲気はがらりと変わる。いわば日本で流布している「パリ」のイメージにぐっと近いまち並みだ。私たちはメトロの出口の向かいにある、古い建物に向かった。
ブッフ・デュ・ノール。19世紀に建てられたこの劇場は、ピーター・ブルックが拠点にしており、かつてミルバとアストル・ピアソラの素晴らしいライヴ・レコーディングが行われた場所でもある(ウェブサイトで、メニューの「LE THEATRE」を選ぶと、美しい劇場の内部の様子も見られる)。
今夜の公演は「Je sais qu'il existe aussi des amours réciproques (mais je ne prétends pas au luxe)」というやたら長いタイトル。なんなんでしょ、「私は相思相愛というものも存在することを知っている(でも贅沢は望まない)」というような意味(違ってたらごめん)??作家・映画監督であり外交官でもあったロマン・ギャリーの小説に基づくというこの舞台を観ることに決めたのは、何よりも出演者と音楽のためだった。
主演女優、イレーヌ・ジャコブ。音楽、ブノワ・デルベック。
舞台にはいくつか重ねられた大きな箱、男物のジャケットがかけられたコートかけなどが置かれている。舞台装置としてはシンプルだ。舞台の下、左側には斜のような布が張られ、その向こう側にグランドピアノが置いてある。ブノワは生演奏をするのだ。
場内が暗くなり、ブノワがピアノの前に腰かけるのが見えた。声が聞こえてくる。イレーヌ・ジャコブの声、しかし姿はみえない。小さな、おだやかなピアノの音が響く。と、舞台の前方に設置された白い箱の上部が空いて、中から細い手が出てきた。イレーヌ・ジャコブは語りを続けながら、しばらく「手」だけのマイムを続けていた。
箱の中から姿を現した彼女は、コートかけにかかったままの男物のジャケットに片腕だけ通し、自分の体に腕を回して男性に抱かれているように見せたりする。演劇的な口調ではなく、ごく普通のトーンで語りが続く。でもその声はちょうど良い大きさできれいに聞こえてくる。音響はどうなっているのだろう。後でLも不思議がっていた。
「マイクが見あたらないのよ。いくら目をこらしても天井から下がってもいないし、床にもない。俳優がピンマイクをつけている様子もないし。どうやってあんなにきれいに声をひろっていたのかしら?」
このまま彼女の一人舞台が続くのかと思ったが、途中から舞台に登場した男優(彼が演出を手がけたジェローム・キルシェだった)と、語りや演技で絡む部分もあった。彼女が国際電話をかけているという設定で、もうひとつの女性の声(と英語でしゃべっているが、イレーヌ・ジャコブ本人と思う)とやりとりする場面も。台詞はずっと恋愛について語っているようだが、私にはなかなか聞き取れない(とほほ)。なので私は演出と音をもっぱら楽しむことにした。
ときおり、舞台装置の箱の表面に美しいビデオ映像が映し出され、ブノワはアコースティック・ピアノとサンプリングを巧みに使ってイレーヌの語りに慎ましく絡む。彼女の語りがピアノに合わせて一瞬メロディになるところが、とてもブノワらしくて素敵だ。イレーヌが1曲だけ本当に歌うところもあった。私はブノワのプロデュースでイレーヌ・ジャコブのソロアルバムを作ってほしい。
ブッフ・デュ・ノール劇場の1階にはしゃれたレストランがある。終演後に入った店内は舞台を見終わった人達や関係者でごった返していた。で、店の奥にもうひとつのドアがあり、そこが劇場の楽屋とつながっていて、出演者はそのドアからレストランに入ってくるのだ。出待ちはここに限ります(^^;)そうでなくても、ここはお料理も美味しいそう。テーブルが満員で、私たちは飲み物だけにしたんだけど。
それにしてもイレーヌ・ジャコブ、かわいい...(*^^*)せっかく近くにいるのに、サインだの握手だのは遠慮してしまって、うっとりながめておりました。私には全然わからなかったけど、けっこう、俳優や歌手の有名人が来ていたようです。
ひとつ気になってること。劇場の2階席にいた、ニットの帽子をかぶりちょっと変わった黒いフレームの眼鏡をかけていたおにいさんが、どーもマルク・デュクレだったような気がする。でもブノワも会っていなくて「え、マルクが来てくれてたの?!」と言っていたくらいなので、確認はできなかった。
帰宅したのは11時過ぎ。LのパートナーのF君は先に戻っていて、DVDで「仁義なき戦い」を観ていた(笑)。私はトランジスタラジオを借りて、ルイの特集番組を終わりの方だけ、リアルタイムで聴いた。ルイがしゃべっている間に、ライヴ演奏が挿入される。Europa Jazzで収録したもののようだ。