ファビアン・バロンティーニに聞く
聞き手:CHARLES DE SAINT-ANDRE

(3)第12回フェスティバルについて〜その2

 

ソン・ディヴェールで決して見ることができないミュージシャンはいますか。

私の大好きなヨハン・セバスチャン・バッハがいますよ!すばらしい演奏家達がね!冗談はさておき、ソン・ディヴェールにどうやってクラシック音楽を迎え入れられるかと思案しています。実現したいのですが、まだ方法が見つかりません。でもブランデンブルク協奏曲は、ビル・コールズ・アンテンパード・アンサンブルみたいに生命感に溢れてるじゃないですか...
質問に戻ると、様々な状況のために、プログラムしたくてもできないミュージシャンはすでにたくさんいます。たとえばブラジルのミュージシャンは、ちょうど1年のこの時期にカルナヴァルの準備真っ最中なんですよ。他には、私の進めていることとは異なるミュージシャンはアーティスティックな選択からはずれます。

今年のプログラムでは、最近新作を出したのはイヴ・ロベールとドゥニ・コランだけですね。メディア的なイベントは避けているということでしょうか。

いや、私はオリジナリティのためのオリジナリティを追究しているのではありません。逆に、ドゥニ・コランが多くのフェスティバルにプログラムされてほしいと願っています。コランは、ジャズ、譜面に書かれた音楽、ワールドミュージックやヨーロッパのクラシック音楽の演奏技法の間でオリジナルなものを創り出そうとしています。彼は極めて洗練されたかたちでグルーヴを探究していて、私はアルバム「Something in Common」での彼と他のミュージシャンとの出会いをたいへん気に入っています。
ですから、彼とグウェン・マシューズを迎えるのには何の問題もありませんでした。二人は10日間をミネアポリスで過ごし、リハーサルと他のミュージシャンも加えたコンサートを行ったばかりです。ジャン・ロシャールの世界に開かれたアイデアはとても好きですね(*「Something in Common」は、ミッシェル・ポルタルの「Minneapolis」同様ジャン・ロシャールが仕掛けた)。

Denis Colin
Denis Colin (photo: Helene Collon)

今回のフェスティバルには、グウェン・マシューズ、シーラ・ジョーダン、リーナ・コンクェスト、フィル・ミントン、エイダ・ダイアーが参加します。レコード会社で絶え間なくプロモーションされているジャズの白人ディーヴァ達には、少々苛立たせられることがあります。新しい女性ジャズシンガーのステレオタイプがつくられてしまった。彼女たちが存在し、アルバムがよく売れていること自体には反対はしませんが、そこから紋切り型の集中キャンペーンが浴びせられるんですよ...
フェスティバルはリーナ・コンクェストが偉大なシンガーであり、グウェン・マシューズが素晴らしいゴスペル・シンガーであることを示す手段です。米国では、グウェンは説教をしています。ハーレムの街角で、比類ない声を持った女性シンガー達がアカペラで説教をしているのを見ると唖然とさせられます。彼女達はフランスで売り出されている女性シンガー達を全員粉砕してしまうでしょう。それが生きた民衆文化なんです。

イヴェット・オルネの出演は2度目ですね。

イヴェット・オルネは類い希な女性です。一度彼女に会ったら、好きにならずにはいられません。そして彼女は並はずれたフィーリングを持っている。
評論家達がアコーディオンについて馬鹿げたことを言っていたのを思い出してください。その筆頭アンドレ・オデールは、Jazz Hot誌で「アコーディオンは平凡で低俗な楽器である」と書いたんですよ。アコーディオンとは、インテリへの仕返し、ピエール・ブルデューが描写したような、全くの軽蔑をもって民衆に向き合う「文化差別」への仕返しです。
イヴェット・オルネの優しさと音楽的豊かさには脱帽します。ですからパスカル・コンテが彼女とのデュオ・プロジェクトを提案したとき、当然私達は飛びつきました。
パスカル・コンテの一家は叔母さんがアコーディオン奏者で、彼はウェディング・パーティや誕生祝いのアコーディオンを子守唄代わりに育ちました。彼にとってイヴェット・オルネは生活に密着した音楽そのものなのです。だから私はオルネとコンテをプログラムしました。クレズマティックスも同様です。

トニー・ハイマス・トリオとメビウス(フレンチ・コミックを代表する作家)の出会いではどんなことが起こるのでしょうか。

メビウスは、トニー・ハイマスのアルバムジャケットを数多く手がけています。ある日、彼は私に、ミュージシャンが即興するように絵を描きたいと言ってきました。ステージには製図板と、その上に小型カメラが設置される予定です。サウンドとイメージの関係についての取り組みは、ソン・ディヴェールの一面を示すものでもありますね。
トニー・ハイマスはピアニストとして過小評価されています。しかし彼の最新作には、二つとして似たようなインプロヴィゼーションはありません。彼の素養が、クラシック音楽のリズムを使ってジャズの抑揚やクラシックの抑揚をつけることを可能にしているのです。

サルサ・ナイトについては、サルサにつきまとうモード的な面がありながら、どうやって「本物」を探し出したのですか。

基本的には、昨年レゲエのコンサートでつくった新しいネットワークがあります。
どの音楽にも必ず、真のアーティスティックな前進のために戦い、誠実に取り組んでいる人達がいます。それがワールド・ミュージックのなかでも興味深いものに属しているのです。サルサの状況は女性ジャズシンガーのそれと少し似ています。作られたステレオタイプが存在する。サルサの話題となればいつもダンスフロアと金管楽器のことばかり。サルサは西洋で唯一生きているダンスミュージックになりました。
しかしサルサの領域はとても広いのです。たとえばRykoレーベル(フランク・ザッパのアルバムリリースで知られる)は、エレクトロでモダンな「今」のサルサを数多く出しています。そこで私達は新世代のアーティストを選びました。Raul PazとP18という、台頭してきた2つのグループです。

アフリカのミュージシャンは長い間ソン・ディヴェールに参加していますが、今年のLe Tinde de Tazrouk はどうですか。

フェスティバルの最初の頃から一緒に仕事をしてきているDjilali Aichiouneは、マグレブとブラック・アフリカの音楽を熟知しています。私達はKamel Zekriとも何度も仕事をしています。
今年のコンサートは「フランスにおけるアルジェリア年」の一環として行われます。Djilaliはサハラ地方の音楽を知るために何度もサハラを訪れました。Le Tinde de Tazroukは一度もフランスに来たことがないので、私は代わりに録音を聴きました。 そのなかには私達自身の一部となっているものもあります。そしてミュージシャン達は失ってはならない歌とポリリズムの記憶を託された人達なのです。記憶を失いながらクリエイティヴでいることはできないのです。
(終わり)

Fabien Barontini
Fabien Barontini (photo: Helene Collon)

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