Interview LOUIS SCLAVIS (1)
À paraître très bientôt dans la revue Singulier Pluriel
Propos recueillis par Fanny Paldacci et Lucile Tommasi
Collège JB de La Salle - Lyon, tous droits réservés
traduction japonaise: Mikiko

リヨン、2003年12月5日

今日までの人生で、あなたがどんな活動をしてきたか教えてください。

僕は1953年にリヨン、正確にはクロワ・ルス地区で生まれた。長い間住んでいたからこの地区のことはよく知っている。音楽はかなり早く、10歳の頃に始めた。ずっとミュージシャンになろうと考えていて、17〜18歳の頃、いくつかのバンドに参加して第1歩を踏み出した。プロになったのは1974年、ワークショップ・ド・リヨンのメンバーになった時だ。それ以来、いろいろな出会いを重ねて、様々なグループに参加したり、今も存続している劇団、イマージュ・エギュのために曲を書いたりした。それからだんだん曲作りが面白くなってきたので、僕は世代も分野も異なるミュージシャンと一緒に、自分のグループをつくった。今もそれは続けている。確かに初めのうちは収入も慎ましかったけど、何年も仕事を続けているうちにだんだん良くなってきた。僕の音楽はいわゆるジャズとして位置づけられている。それもかなり広いやり方のね。というのは、グループによって音楽の形態も変わってくるんだ。現代音楽やロック出身のミュージシャンと共演することもあれば、もっとクラシックなジャズのミュージシャンと一緒に演奏することもある。

とてもオープンな方なんですね。

僕は特に人間に対してオープンなんだ。その人自身や、彼らが僕に提案してくることに対してね。僕が興味を持っているのは「出会い」だ。時々、ある関係がつくられて、しばらく一緒に行ってみようということになる。しかもそれはけっこう長期間になることが多いんだ。5〜6年とか、中には20年以上一緒に演っているミュージシャンもいるよ。

Louis SclavisLouis Sclavis

Louis Sclavis(© photo: Yves Dorison)

あなたは人生を飲みほす人ですか、それとも蒸留する人ですか。

「蒸留」っていう考え方はいいね。創造について話をするのにふさわしい方法だ。蒸留とは、いろんなものを蓄えてからそれを煮詰めて、ある特別なものをそこから取り出すということ。日常や人生のエッセンス、人に与えるためにぎりぎりまで濃縮された香りが、ミュージシャンという蒸留器にかけられる...芸術的な仕事になり得るものを表す美しいイメージだね。だから僕は最高の状態に蒸留するべく努力しているし、人々はそれを多少とも評価してくれている。

子供の頃、夢みていたことは何ですか。

子供の頃は、毎日いろんな違う夢を見ていたなあ。何になりたいという夢じゃなくて、特定のモノに魅了されていた。きれいな自動車、ゴミ収集車とかね、それから山歩きをしているような気持ちになったり、あと個人的には、楽器。本当に小さい頃から、僕はモノとしての楽器に魅力を感じていた。僕は太鼓やおもちゃのハーモニカを持っていた。もう少し大きくなって、まだちゃんとした音楽の話をしないうちから、何か楽器を弾けるようになりたいと思ったんだ。路上で吹奏楽団を見たとき、体を暖める焚き火のような熱みたいなものを感じた。それから、楽器をやりたいという気持ちが続いて、僕はミュージシャンになったんだ。

ご両親もミュージシャンだったのですか。

いや、でも両親はよく音楽を聴いていた。蓄音機でかけるロウ盤のレコードとか、それからビニールのLP盤ね。やっぱり、モノそれ自体が魅力だったな。紙ジャケット、「His Master's Voice」、蓄音機の朝顔の前に座った白い犬。レコードジャケットの前で何時間も過ごしたっけ。音楽そのものより、音楽を取り巻くいろんなものをきっかけにして音楽に踏み込むようになることが多いんじゃないかな。レコードプレーヤーとか、ジャケットとか、楽器とかね。楽器はとても触覚的なものだ。楽器を好きになると、触るのが好きになるんだよ。身体的な関係だね。僕はクラリネットを演奏するようになってそろそろ40年経つけど、いつでも両手に楽器を持つときに大きな喜びを感じるね。

楽器に没頭しているときはどんなことを感じているんですか。

演奏したり作曲をしているときに何を見ているか、感じているか、というのはミュージシャンがよく訊ねられることだけど、僕はこう答える。「何も」ってね。これは大きなパラドックスだけど、創造するためには、自分自身を空っぽにして精神を覚醒させていなければならない。作曲や、ステージでのインプロヴィゼーションに取り組むとき、言いたいことや感情があり過ぎると、音楽の居場所がなくなってしまう。音楽や、聴衆や、起こりうる全てのこと、未知なるものに居場所をとっておくためには、頭を空っぽにしておくことが必要なんだ。こうして、予測できないものを不意にキャッチできるおかげで、創造が可能になる。この能力は時間をかけて、熟練して身につけることができるものだ。僕が演奏するときは、ある特定の感情を表現しようとはしない。もっと散文的に、音楽形式やメロディや演奏のしかたを蒸留しようとしている、それだけのことだ。僕には音楽が何を語ろうとしているか知らないし、最終的には、それを語るのは僕ではない。僕は、それが何を語るのか知らないままに、可能な限り良く仕上げた状態で、あるものを差し出す。聴衆がそこに一つの意味を与えて、多層的なものにするんだ。なぜなら、日や場所や会場の雰囲気によって、ひとりひとりがそれぞれの感受性で音楽を感じ取るわけだからね。作曲をするとき僕がアーティストとして目指すのは、知的な感動や身体的な感動を作り出すことだけれど、何を感じなければいけないと押しつけたりはしない。だから音楽をやっている時、僕はどんな感情も持っていない。僕のほうはグループを指揮したり、演奏をコントロールしたり、音楽の道具をつくるのに没頭しているから、他のことは考えていない。他のことは、僕とはかかわりなくやって来るものなんだ。この、空っぽという考え方はちょっと逆説的だけど、十分に正しいよ。

「詩」も同じですよね。

そう、それも、とても正確な「蒸留」という考え方を常に伴ってね。

あなたの音楽世界を、フェズ(モロッコ)のスーク(市場)か、カルカッタ駅のコンコースを思わせると誰かが言ったそうですが、その例えは正しいと思いますか。

それを言ったのは僕だよ。あるとき、自分自身をどう定義するかと聞かれてそう答えたんだ。僕の音楽はひとつの場所に還元されるものではなくて、開かれているものだと言いたかったんだよ。それで、いろんなものが行き交い浸透し合っている2つの場所を選んだんだ。僕の音楽は人生すべてから作られている。そして、強い印象を受けた特別な瞬間を、ある詩的なイメージとしてうまくフレームに収めて写真を撮るのは僕自身だ。撮るべきものは至る所にあるし、できる限りあらゆる場所に行って、様々な人のために演奏しなければね。

ステージで、演奏が軌道からはずれちゃうことってありますか。

はずれ方はいろいろあるよ。演奏をしくじったり、コンサートにうまく取り組めなかったり。場所ごとの音響とか、ステージとか、観客とか、そうした要因のひとつでも気に入らなければ、たちまち軌道からはずれてしまうし、そんなときはコミュニケーションがとても難しくなる。うまく蒸留できていない音楽プロジェクトを立ち上げたり、ミュージシャンの人選を誤ったりしたときも同様だね。でも熟練してくると、犯した間違いにすぐに気づいて、コンサートの間にわりと楽に軌道修正することができるようになるんだ。何かが起こったとき、その脇を完璧に通り抜けられることは滅多にない。観客の聴き方にも大きく左右されるよ。僕らの演奏を最高のものにしてくれることもあるし、どういうふうに聴いてくれているのかこちらが理解できない時には僕らを混乱させることにもなる。コンサートは僕にとって、ステージと観客の間にある漠然とした場、実体はないけど存在していて、ひとりひとりがそのクオリティに責任を持っている橋なんだ。
(つづく)


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