Interview LOUIS SCLAVIS (2)
À paraître très bientôt dans la revue Singulier Pluriel
Propos recueillis par Fanny Paldacci et Lucile Tommasi
Collège JB de La Salle - Lyon, tous droits réservés
traduction japonaise: Mikiko

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Napoli's Wallsは、どんな風に生まれたのですか。

僕の古い友人にエルネスト・ピニョン=エルネストという造形作家がいて、彼はとても美しい写実的なデッサンを描き、路上でそれを張るんだ。場所は前もって決めてある。彼が関心を持っているのは、自分のデッサンが存在する状況をつくりだすことによって、日常のなかにいる人々を挑発することなんだ。そうしてから、彼は張りつけた作品を写真に撮るという作業をする。以前に彼はリヨンで同じような展示をしたことがある。白黒で描いた等身大の人物像を、街中の電話ボックスに張りつけたんだ。現実的な風景ではない。白黒だということで一種の異化効果が発生するからね。でも凄く動揺させられる、とても美しい風景だった。一度、彼と一緒に仕事をする機会があって、彼を取材したドキュメンタリー番組の音楽を作った。で、いつかあなたのプロジェクトをテーマにしたアルバムを作りたいって彼に話していたんだ。僕は彼がナポリで行ったプロジェクトを選んだ。デッサンはそれぞれ、展示をした場所、道が持つ歴史との関わりのなかで考えられたものだった。僕はこのプロジェクトを、舞台装置や登場人物や喜怒哀楽が書かれた1冊のオペラ台本として受けとめた。一方、この音楽プロジェクトのために、僕には一緒に仕事をしたいミュージシャンが何人かいた。彼らはこの仕事にとてもふさわしいと思えたんだ。そして、突然全てがひとつに結びついた。変化への欲求、ミュージシャンたち、エルネスト・ピニョンの仕事、僕に新作を作らないかと持ちかけてきたフェスティヴァルがね。

完成された仕事のことはどう思っていらっしゃいますか。

完成することは滅多にないよ。一種の完成と考えられるのは、レコードかな。形になったものだから。普通、僕がレコーディングにとりかかるのは、プログラムをステージでかなりの期間演奏して、どうやって演奏すればいいかを見出してからだ。インプロヴァイズド・ミュージックでは、1回のコンサートごとに思いがけない発展があって、できる限り最高の演奏を見出すまでには時間がかかることは珍しくない。なぜなら、1曲1曲にそれぞれ生命があって、次第に僕たちはそれを豊かにしたり、あるいはもっとシンプルにしたりする、これがどんなときにも一番重要な作業なんだ。そうしてある時、ついにこのプロジェクトを自在に演奏することができるようになった、と思う。ところがこれは到達点ではない。その後もステージでプログラムの演奏を続けていくんだから。というわけで決して完成されることはないんだ。でも、ひとつのプロジェクトが年月とともに消えていくということは言える。何度も演奏して、もうそこから何も引き出せなくなったときだ。あるプロジェクトが別のプロジェクトより息が長く続いたりする。「完成」について話をするのは本当に難しい。あるいは、「完成」という瞬間が起こるのはコンサートの時だね。ひとつひとつのコンサートがそれぞれ一つの到達点なんだから。

エルネスト・ピニョン=エルネストの本名はご存知ですか。

彼の本名だよ。ただ、もうひとり同姓同名の画家がいたので、間違えられないように彼の名前「Ernest」を最後にもう一度つけたんだ。

壁には耳があるって思いますか。

うん、壁には耳がある。いや、むしろ汗をかいているんだ。想像してごらん、1世紀、2世紀ものあいだ建ち続けてきた壁はさまざまな出来事やヴァイブレーションを蓄積しているんだ。壁は生きものだと考えることができる。一種の植物で、時には「蒸留」する。壁に対してある共感をもって、想像を広げていくと、壁が体験したことが感じられ、壁が語りかけてくるようになる。これはひとつのイメージ、一種のゲームだ。芸術家には、「物」で遊ぶことがいつでも必要だ。音楽を作るとき、インスピレーションを受けるために僕はゲームを発明する。子供の頃みたいに。この壁はどんな風に生きてきたんだろうって、いろいろな歴史を作り出すんだ。それが実話かどうかっていうのは大して重要じゃないよ。

今、お気に入りの言葉を2つ挙げてください。

すぐに思い浮かぶのは、「douceur」(sweetness)と「sensible」(sensitive)。音の響きも、意味も好きだ。

では、好きな画家をひとり。

好きな画家はたくさんいて、日によって違うなあ。フェルメールは大好きだ。フランドル地方の画家で、寡作で二十点くらいしか作品を残していない。「黒」をテーマにした作品を描き続けているピエール・スーラージュもいい。僕の本当に大好きな抽象絵画だ。それからブリューゲルやピカソも好きだ。音楽でもバロック音楽もラップも聴くのと同じで、僕の好みはいろいろだね。でも、好みは時とともに変わっていくものだ。1970年代の僕は、ミロの絵画にはあまりピンと来なかった。年月が経ち、バルセロナのミロ財団に行ったときに、僕はこの画家を再発見したんだ。「好きになる」ということは、学びとっていくことなんだよ。

作家をひとり挙げてください。

今の質問をA Vaulx Jazz フェスティヴァルに関連させると、僕は「Des mots dans la musique」(音楽のなかの言葉)と名付けたコンサートをフェスティヴァル側に提案したんだ。音楽のなかに、語られる言葉をとりいれたいと思ったんだよ。語られる言葉は重要だと思う。コンサートでは、Napoli's Wallsでラッパーと共演する。第1部では友達の詩人マルク・ポルキュが書いた作品や、彼が翻訳した文学作品の抜粋を選んだ。マルクはサルディーニャ島の出身で、若くして亡くなった作家Sergio Atzeniや、ナポリ出身の有名な作家エルリ・デ・ルカの作品を翻訳している。マルクと俳優をやっている僕の兄弟(Jean Sclavis)による朗読にのせて、僕はもう一人の友達(彼もサルディーニャ人で、アコーディオンとピアノを弾く)と演奏するんだ。これは言葉と音楽のアソシエーションだ。朗読はとてもいいやり方だ。誰かの朗読に向きあうことで、文学を別の形で発見することができるんだ。自分で読んでいる時には何も感じ取ることができないことがある。詩の場合は特にね、でも、人が読んでいるのを聞いていると、その作品の魅力にすんなり入っていけるようになるんだ。それこそが、今度のコンサートで僕が皆と分かち合いたいことなんだよ。テクストに聴き入って、語るんだ。今は語ることが大切な時代で、世の中にはもっと語られる言葉があふれないといけない。語られる言葉は必然的に意味を持つ。そして、物事に意味を与えるのは重要なことなんだ。この社会にはイメージや情報や音楽が絶えずあふれていて、そんな中でしばしば物事が気付かれないままに起こるから。語る言葉は意味を与えることを課されているんだ。

もしも、あなたが1本の杭の虜になったら、あなたの右耳はどんな風に反応しますか(*注)。

これは形而上学的な質問だね。自分の耳が実際どう反応するかはわからないと思うな。最初に受ける反応は身体全体によって仄めかされることが多いんだ。たとえばNapoli's Wallsでは、僕は(エルネスト・ピニョンの)写真に体ごと没入した。聴覚や視覚ではなく、身体的な感情を覚えたということ。走っている子供の姿が見える写真があって、僕は反射的に、この子を追いかけて走って行きたいと思ったんだ。衝動を受けたのは身体そのもの。その結果できた曲は、疾走する音楽になった。視覚と聴覚は、僕にとっては最も決定的な感覚ではないんだ。不意に僕を呼ぶのは僕自身の身体だ。こわばったり、和らいだりしてね。

これまでの質問に出なかったことで、お話したいことがあったらどうぞ。

僕は定期的に架空インタヴューをして愉しんでいる。架空インタヴューでは、今まで誰にも聞かれたことのないテーマを出さなければいけない。ただノートをとっておかないと忘れてしまう。一時期、僕はノートを持ち歩いていた。それからしばらくの間は持たなかったんだけど、また1冊買ったんだ。なにも忘れないようにね。でももちろん、自分で質問を作り出すよりは、他の人たちから質問を発見するほうが好きだよ。


*注:私を悩ませたのはこの質問でした。いったいどんな意味なのか??おとぎ話とか何かの文学作品が下敷きになっているのか?
答え。この質問は、エクリチュール・オートマティックみたいな手法でつくったもので、「意味はない」そうです。ルイはその質問の特に後半に注目して、「聴覚」から身体性にまで話をひろげて答えているのです。
で、なんでまた中学生がエクリチュール・オートマティックなのかというと、この記事を送ってくださったコレージュの先生が主宰する国語教室(授業とは別のものみたいです)で、そういうシュルレアリストな方法で文章を書くということをさせていて、ファニーちゃんもリュシルちゃんもその教室に参加しているから。フランスって、フランスって。


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