「つかの間のリーダー達による想像的民俗音楽」第3回です。
第1回 17/07/98、 第2回 23/07/98と、あわせてお読みください。毎回、キリの良いとこまでにしてるんで今回はちょっと短めですが、その分つぎが長くなりそうだなー。うーむ。
ところで前の2回分、変換ミスで「想像的」が「創造的」になっちゃってました(^^;)
すみません。訂正しておきましたので...
L'ARFI ET LE CNAJMI
M.M.:
1980年、僕は助成金獲得のために文化省の音楽局を訪ねた。あの頃、ジャズで助成を受けていたのはクロード・ボランのフォーメーションだけだった。会った担当者は屋根裏部屋に押し込められてるも同然で、合唱団とアマチュアの練習とジャズとポップスと伝統音楽を同時に受け持って大忙しだった。彼のオフィスはほんとに狭かった。クラシック音楽の監督官のオフィスはその3倍くらい広かったのにね。で、その担当者は僕の話に興味を持ってくれたんだけど、ジャズに対する助成金を出すことができなかった。だからその年は、ARFIは合唱団という扱いになって、初めての助成を受けることができたんだ。
81年以降、「あらゆる音楽」への援助を望んだ音楽局長のモーリス・フルーレのおかげで、音楽局にジャズ・ポップス部門ができた。そうして、約60のミュージシャンの団体が、僕が初代会長を務めたCNAJMI (Collectif National des Associations de Jazz et Musiques Improvisees) に加入した。CNAJMIは、2年くらいの間重要な影響力を示した。83年、僕らは全オーケストラを率いてル・アーヴルに集結した。それが最後を飾る花、いわば「白鳥の歌」になってしまったんだが...
POURQUOI? なぜ、そんなことに
M.M.:
団体の多くは、権力の奪い合いとか、内部の問題から失敗に終わってしまった。ミュージシャンに影響を与えたいという情熱に基づいたものではない、ちょっと現実離れした音楽教育をやってるところも多かった。いくつかの団体は制度に組み込まれ、他の団体は消滅した。そして、1981年から83年までの恵まれた時代を過ぎると、助成金獲得は再び困難になってしまったんだ。
POURQUOI L'ARFI A TENU BON なぜARFIは持ちこたえたか
J.M.:
「はじめに音楽ありき」だったからだね。ARFI結成前からグループは存在し、活動していた。それに権力の問題もなかったし。
A.R.:
それに、マルミト・アンフェルナルという、僕ら全員を一つにまとめる力があった。
M.M.:
むしろ、ARFIのおかげでマルミト・アンフェルナルが存続したんだよ。
A.G.:
でも、マルミトは団体の保証みたいなものだった。たとえば僕らの記憶でも、ワークショップのイスラエル公演より、メールス・フェスティヴァルでのマルミトのコンサートの方がずっと重要な思い出になっている。
(以下、次回に続く)